Yokohama Twilight Times — It’s time for our final dance.
Yokohama Twilight Times

ホテルニューグランド、瓦礫の上の鳳凰|大階段からバーまで、九十九年を歩く

ホテルニューグランドのバー シーガーディアンIIから望む横浜港の夜景

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最初に覚えているのは、青でした。

山下公園に面した本館に入り、正面の大階段を見上げたときに目に入った絨毯の色です。ニューグランド・ブルーと呼ばれるその青は、敷かれているというより、階段そのものが持っている色のように見えました。

近代建築を見に行ったつもりでした。けれど、この建物の中で起きたのは意匠を眺めるのとは違うことでした。階段を上がり、中庭に出て、ロビーの天井を見上げ、最後にバーのカウンターに座る。そのあいだに、この建物が通り抜けてきた時間のほうが、こちらへ向かってくる。歴史を辿る、という言い方がいちばん近いと思います。

来月、このホテルは開業から九十九年を迎えます。

山下公園通りから見たホテルニューグランド本館の夕景
山下公園通りに面した本館。銀杏が色づくころの、日が落ちたばかりの時間。

大階段 ― 瓦礫の上に、鳳凰を置いた

階段の手すりは、一枚ずつ色の異なるイタリア製の釉薬タイルで覆われています。一枚ずつ違うというのは、写真ではまず伝わりません。手を滑らせながら上がっていくと、青が緑に寄り、また別の青に戻る。

上がりきった壁面には、二代目川島甚兵衛による綴織「天女奏楽之図」。そして時計のまわりに、鳳凰の飾りが並んでいます。

鳳凰は、このホテルのいたるところにいます。創業時からのモチーフで、かつてバーで使われていた古いコースターにも鳳凰が描かれていました。

ホテルニューグランド本館の大階段。青い絨毯と釉薬タイルの手すり、上部に時計と鳳凰
大階段。ニューグランド・ブルーの絨毯、一枚ずつ色の異なる釉薬タイルの手すり、そして時計の上に鳳凰。

なぜ鳳凰なのか。それを知るには、開業の四年前に戻る必要があります。

1923年9月1日

関東大震災。山下町にあったホテル街は、瓦礫になりました。横浜という街が外国からの客を迎えるために持っていた建物が、一日で消えたということです。

そして、ひとつの判断が下されます。瓦礫を、海に入れる。

いま山下公園と呼ばれている場所は、その瓦礫で埋め立てられた土地です。震災が生んだ瓦礫が、公園という形で街に戻された。

1927年12月1日、ホテルニューグランドは、その公園を正面にして開業しました。初代会長は井坂孝、設計は渡辺仁。最初の支配人はスイス人のアルフォンゾ・デュナン、料理長はパリから招かれたスイス人、サリー・ワイルでした。

つまりこの建物は、瓦礫でできた土地を見下ろす位置に、瓦礫の街から立ち上がった。そして自らを、灰から甦る鳥で飾ったわけです。

階段で足が止まったのは、たぶんそういうことだったのだと、あとになって思いました。美しい青だと感じたものの下には、埋め立てられた瓦礫があった。

中庭 ― 建物の内側に、小さな外があった

階段の横を奥へ進むと、一階に中庭があります。

ホテルの中庭という言葉から想像していたものとは、だいぶ違いました。噴水があり、光が落ちている。閉じているのに、閉じていない。ヨーロッパの建物の内側に不意に現れる、あの種類の空間です。

山下公園という大きな外を正面に持っている建物が、自分の内側にも小さな外を抱えている。驚いたのは、それがあることを知らずに入ったからでした。

建築 ― 東と西が、同じ天井の下にいる

設計は渡辺仁。銀座の和光などを手がけた建築家で、五階の増築部分はJ.H.モーガンの設計です。

外観は西洋古典主義の壁面三分割を踏襲しつつ、アール・デコの影響が見られます。ここまでは、横浜に残る他の近代建築と同じ系譜といえます。

内側に入ると、話が変わります。

二階ロビーは、東側が石で覆った柱の洋風、西側がマホガニーを多用した和風。ひとつの部屋の東と西で、様式が違うのです。天井の梁の下には漆喰の飾りがあり、吊り照明には巴紋が入っています。

マホガニーの柱の上部には、弁財天を描いた青銅製の燭台。壁面には、カーマスートラのレリーフ。

二階のフェニックスルームは、開業当初のメインダイニングでした。格天井など、日本の木造伝統建築の様式を取り入れた桃山調の部屋です。

近代建築を見に来たつもりが違った、というのは、おそらくこのあたりです。洋館を見ているはずなのに、天井に巴紋があり、柱に弁財天がいる。横浜に残る他の近代建築が、西洋をいかに正確に建てるかで競っていたとすれば、この建物はそこにいません。

開港場に建った迎賓館が、何をもって国際的であろうとしたのか。その答えが壁と天井に出ています。西洋を模倣するのではなく、西洋から来る客に向かって、東洋をきちんと見せる。

本館は1992年に横浜市認定歴史的建造物、2007年には経済産業省の近代化産業遺産に認定されています。

バー ― 七年が、いまもメニューに残っている

一階のバー、シーガーディアンII。

このバーはホテルと同じ1927年に開きました。名は海の守り神。海岸通り側にあり、ホテルの玄関を通らずに入れる造りでした。

手本にしたのは、横浜港に寄港する客船のバーです。そしてその作法が、いまも残っています。

バーテンダーはシェイカーの口を、自分ではなく客のほうに向けて持ちます。理由は実務的なものでした。昔のシェイカーは液が漏れた。狭い船内のバーで口を自分に向ければ、漏れは自分だけにかかる。客のほうに向けておけば、漏れたときに客とバーテンダーの双方にかかる。つまり、客だけが濡れることがない。

百年前の船の上で決まった持ち方が、陸の上のバーでまだ生きています。

1945年8月から、1952年6月まで

1945年8月、ホテルは全館接収され、米軍将校の宿舎になりました。解除は1952年6月。およそ七年です。

この七年を、このホテルは三つの形で残しています。どれも、いまメニューで注文できます。

ひとつ目。ドライマティーニを作ろうにも、ドライベルモットが手に入らない。そこでシェリーで代用した。その一杯がマティーニ・ニューグランドとして定着し、いまもメニューにあります。

ふたつ目。米兵たちは、茹でたスパゲッティに塩と胡椒、トマトケチャップを和えて食べていました。接収が解除されたとき、大量のスパゲッティが残された。二代目総料理長の入江茂忠は、それをホテルの料理に作り変えます。ニンニクと玉葱を飴色になるまで炒め、生トマト、水煮トマト、トマトペーストでソースを作る。スパゲッティナポリタンです。

みっつ目。接収中、将校の夫人たちが滞在していました。見栄えがよく、量の多いデザートが求められる。アメリカの菓子学校の教科書を参考に、プリンにアイスクリームと缶詰の果物を合わせた。量が多すぎて通常の皿に収まらず、コルトンディッシュという器に盛った。その洗練された形からプリン ア ラ モードと呼ばれるようになり、いまも同じ器が使われています。

接収というのは、建物を取り上げられることです。七年のあいだ、このホテルは自分のものではありませんでした。

その七年が、恨みの記録としてではなく、レシピとして残っている。ここが、この建物のいちばん特異なところだと思います。

ちなみに、接収期にマッカーサーが滞在したときの話も伝わっています。厨房が出せたのは干鱈だけで、彼は一口で残したそうです。

接収より前に生まれた一皿もあります。シーフードドリアです。体調を崩した銀行家の客にのど越しの良いものを求められたサリー・ワイルが、バターライスに海老のクリーム煮をのせ、グラタンソースとチーズをかけて焼いた。メニューにない料理を、その場で作ったわけです。彼はメニューに、コック長はメニュー外のいかなる料理にもご用命に応じます、と書いていた人でした。

ヨコハマElegance ― ある俳優の一言から

そして、このバーで飲んだ一杯のことを書きます。

ヨコハマElegance。シャンパンに、ローズ、すみれ、マスカット、リキュール。ランの花びらが一枚浮いています。藤色に透き通った色をしています。

バー シーガーディアンIIのカウンターに置かれた藤色のカクテル
ヨコハマElegance。藤色に透き通った一杯に、ランの花びらが一枚。

考案したのは、現チーフバーテンダーの太田氏。きっかけは、俳優の藤竜也でした。

藤竜也は若い頃からこのバーを使っていて、石原裕次郎とよく訪れていたといいます。その藤氏が太田氏と横浜の魅力について話すなかで、こう言った。僕はここ横浜の独特なエレガンスが好きなんだ。

その一言から、この一杯が生まれました。

藤竜也という名前に反応したのには、理由があります。

野毛の立ち呑み屋で生まれた歌

「横浜ホンキートンク・ブルース」という歌があります。原田芳雄、松田優作、山崎ハコ、石橋凌、そして藤竜也自身と、多くの歌い手が歌い継いできた曲です。

この歌詞を書いたのが、藤竜也でした。

七十年代が終わろうとしていた頃、トム・ウェイツの曲から着想を得て、横浜を舞台にした詞を書いた。それを受け取ったゴールデン・カップスのエディ藩が、数日もしないうちに曲をつけた。場所は野毛の立ち呑み屋で、競馬中継を見ながらだったと伝えられています。エディ藩は、藤竜也の高校の後輩でした。

この歌には、横浜の実在の場所が出てきます。グランドホテル。そして、1953年創業の老舗イタリアンレストラン、オリジナルジョーズ。関内駅南口から歩いて五分の場所にありましたが、2011年10月、創業五十八年で店を閉じています。

歌に出したホテルのバーに通い、そこで横浜をエレガントだと言い、その言葉がカクテルになった。詞を書いた男が、自分の書いた風景の内側に座っていたことになります。

藤色の一杯を前にして、しばらくそのことを考えていました。

From the Counter

♪ヨコハマ・ホンキィ・トンキィ・ブルース

🎙作詞 藤竜也 作曲 エディ藩

歌唱 √11(Elegance Cover)
※原曲の音源ではありません

七十年代の終わり、野毛の立ち呑み屋で曲がついた一曲を、エレガンス・カバーで歌いました。バーボンの匂いのする詞を、この街の夜に合わせて少しだけ静かに。グランドホテルの灯は、いまも同じ場所にあります。

三十年後の、別の横浜

もうひとつ、このバーの名を歌った曲があります。

サザンオールスターズ「LOVE AFFAIR 〜秘密のデート」。1998年2月11日発売、作詞作曲は桑田佳祐。1997年の年越しライブで初披露され、ミュージックビデオもその場で撮影されました。

歌詞には大黒埠頭や横浜ベイブリッジとともに、バー・シーガーディアンが出てきます。いまもその名を頼りに店を探して訪れる人がいるそうです。

ただ、ここには小さなずれがあります。このバーがシーガーディアンだったのは1927年から1991年まで。1991年にシーガーディアンIIへ改称されています。曲が世に出た1998年の時点で、その名前のバーは、もうありませんでした。

そして、桑田佳祐がこの歌詞を書くときに参照したのは『じゃらん』や『るるぶ』の横浜版だったと言われています。サビに出てくる橋についても、レインボーブリッジと横浜ベイブリッジを取り違えて書いたという話が残っています。

これをいい加減だと読むこともできます。けれど、私はそう思いませんでした。

藤竜也が書いたのは、通っていた街の歌です。桑田佳祐が書いたのは、ガイドブックの中にある憧れの街の歌です。三十年のあいだに、横浜は行く場所から憧れる場所に変わった。あるいは、そういう横浜像を日本中が共有するようになった。

地方で育って、歌とドラマで横浜を知った人間としては、後者のほうに身に覚えがあります。私が憧れた横浜は、たぶん『るるぶ』の側の横浜でした。

その憧れの出どころに、いま座っている。

むすび

階段の青、中庭の噴水、巴紋のある天井、藤色の一杯。

近代建築を見に行くつもりでした。けれど実際に起きたのは、建物を見ることではなく、この建物が通ってきた時間をひとつずつ辿ることでした。瓦礫、鳳凰、東と西、七年の接収、そしてふたつの歌。

それぞれ別の時代のものが、いまも同じ建物の中に、同時にあります。

開業から九十九年。この建物は、まだ営業しています。

Twilight Today

山下公園前の11月7日の日の入りと、空が暗くなりきるまでの時間です。

日の入り
16:42
薄明の終わり
17:09
青の時間
27分

市民薄明の終了(太陽高度マイナス6度)までを青の時間としています。数値はこの地点の緯度経度から毎日計算しています。

日没の時刻は、冬至に向かって早くなり続けるわけではありません。横浜で日の入りがいちばん早いのは12月5日ごろで、冬至より半月以上も前です。その日の日没は16時32分。空が暗くなりきるまでの青い時間は25分あります。

バーが開くのは17時。日没に合わせて山下公園を歩いてから入れば、空が藍から紺へ落ちきったあとの時間を、この建物の中で過ごすことになります。

この記事について

2026年11月、横浜市中区山下町のホテルニューグランド本館を訪ね、館内の歴史展示とバー シーガーディアンIIでの時間をもとに書きました。沿革、建築、料理の由来については、ホテル公式サイトの記載と、取材記事を照合しています。

記事中の絵はすべて筆者による作図で、写真ではありません。実際の内装や眺望とは異なる場合があります。

営業時間やメニューは変更される場合があります。お出かけの際は公式情報をご確認ください。

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